2020年10月21日

道後化石温泉

 夏目漱石の坊ちゃんを読んでいたら道後温泉に行きたくなった。松山空港まで飛び、バスで松山市に出てから路面電車で道後温泉の本館に向かった。この建物は当時としては相当の金額をかけて建設されたものらしく、木造だがかなりの気合が入っていることが良くわかる。中に入り、目的の湯に向かった。脱衣所で裸になっていると何とロッカーが有料である。仕方なしに100円を入れようとすると、どこらかおっさんが飛んできて「こっちを使えばタダだよ。もったいない。」とか言いながら私を別のブロックに引いていく。私は素っ裸でやや驚きながら服を持ちながらおっさん後についていく。確かにそこのエリアのロッカーは無料であった。私は感謝を述べ、改めて服をすべてそちらにぶち込んでから湯殿へ向かった。湯は透明でサラリとしており、それでいて硫黄の匂いがわずかにする絶妙の湯質である。そういえば今でこそ白く濁った白濁の湯が流行しているが、江戸時代は透明な湯が名湯の条件で、濁った湯は嫌われていたようだ。そうなるとここは本当に名実ともに名湯であろう。「坊ちゃん泳ぐべからず」の看板もあり、漱石の時代の雰囲気が楽しめる。ただ湯はかなり熱く、じっとしていると体がぐつぐつ煮えそうである。何回も入る出るを繰り返し、相当体がふやけたころ合いで出ることにした。上の座敷に上がりこみ、茶と菓子で寛いだ。ここに居るとあたかも自分が明治か大正時代の人物になったような気分になり、オッペケペとか叫びたくなる。

 さて、湯に入ったことだし、大いに満足し、本館前の商店街をぶらつく。しかし特にこれといったものも無く、ただぶらつくだけで商店街を抜けてしまった。考えるになぜこんな火山も無い平地に温泉が湧くのか不思議でならない。桜島温泉みたいに目の前で火山がドカンと爆発していれば、これなら熱いお湯が出るよな、と納得するのだが、どうも松山はそうではないらしい。近辺に火山も大きな山も無く、どうして温泉が出るのかわからない。多分どこかの火山帯が地下深くにあるのであろうか。今から3千年前にシラサギが傷を治しているところを人間が発見し、見つけたと文献にある。その後博物館で調査すると昔はこの付近に火山があり、火山がなくなったあともその余熱が地下に残っていて温泉の熱源になっているらしい。つまり火山熱の化石である。

 私の住む千葉にも妙な化石がある。それは古い時代の海藻の化石で、それが地下で大規模な層を形成し、ヨウ素の鉱脈みたいになっている。その生産量は世界一だ。また古代の海水がプレートの移動で閉じ込められた古代海水という化石もある。こいつを汲みだして加温した温泉は船橋にはたくさんある。化石というと生物ばかり考えるが、こんな役に立つ化石もあるのだ。アメリカにも昔の湖が地下深くに閉じ込められた古代の真水がある。有名な穀倉地帯の地下水だ。この水のおかげで半砂漠地帯なのに井戸を掘ればいくらでも水がでてくる。もっとも最近はくみ出しすぎで水の量が減っているようで、いつか真水が尽きたらアメリカ穀倉地帯は砂漠地帯に戻るのだろうか。道後温泉はどうだろう。いつか昔の火山の余熱は冷えて消えていくだろうし、そうなれば温泉は消える。それまで何年かかるかわからないが、地球クラスの余熱だからもしかして1万年くらい持つかもしれない。
posted by 渡邊政道 at 09:09| Comment(0) | 日記

2020年10月20日

秋の紅葉京都旅

 秋が深まり、冬が来る前に何とか京都で紅葉を見ようと考えていた。季節の変わり目なのか全身の倦怠感がひどい。ただ体は元気なので精神的な影響があると思われる。ジムでランニングマシンに乗るところまではダルイが、走り出すと普通に飛ばせるので多分そうであろう。新幹線の京都に着いてから在来線で山科に向かい、東西線に乗り換えて醍醐に到着した。醍醐寺までは歩いてすぐであり、天気もうららかで散歩日和となった。ただ紅葉シーズンなのに道を誰も歩いていない。皆、バスかタクシーでも使っているのだろうか。幸い駅から奈良街道までは遊歩道が整備されていて、とても歩きやすい。奈良街道を横切ると山門がすぐ視界に入り、そのまま境内に入る。いよいよ紅葉の名所に突入である。砂利道の参道には多くの人々がそぞろ歩きしており、段々と紅葉見物の気分が高まる。中に踏み込むにつれあたりの紅葉はより赤く、その赤みは鋭くなり、目に艶やかに焼き付いてくる。人混みを抜けて森の中に入ってみた。木々の間を通る風は心地よく、森林浴を兼ねた旅が出来ていることに満足する。何やら池が現れた。池越しにお堂のような物があり、赤い太鼓橋もあるのでそのアングルがとても良く、写真を何枚か撮る。もう先がないようなのでまた元の道を戻ることにした。

 紅葉と言えば京都だが、葉の赤さの程度や森のスケールを比較すればアメリカやカナダの方が上である。それでも京都の何となく淡い、はかないような、箱庭的なはっきりしない色づきは日本らしく、このお堂のような東洋的な建築物が相まって日本人だけでなく外国人にも人気なのであろう。私はまただらだらと参道を逆に歩き、醍醐駅に戻った。ちょうど昼になったので何か食すと思い、駅のアル・プラザというショッピングセンターらしきものに入る。中には大きい吹き抜けがあり、そこにフードコートに何と私の好きな「すがきや」があるではないか。名古屋を本拠とするこの店は以前、千葉の船橋にもあったが、すっかり消えてしまった。あの白いスープのラーメンは好みで、独特の形のスプーンですくうような食べ方も好みであった。早速、ラーメンとソフトクリームをセットにして注文し、食した。あの独特のスープは健在で、懐かしい味に思わず笑みがこぼれる。もうこの店は関東には無いのである。関東人には合わないのか、全店撤退してしまった。この味に出会うためには新幹線で関西に行く必要がある。そういえば沖縄にしかない「やっぱりステーキ」という店も好きで、名護に居るときは毎晩ここで夕食を取っていた。この店も関東には無かったが、最近やっと東京に出来たらしい。食は地域性が強く、インスタントラーメンでも地域で味を変えているらしい。私の舌は関西風で沖縄風なのであろうか。ドクターペッパーが好きでよく飲むのでアメリカ的かもしれない。食べ終わり、アル・プラザの出口で振り返りながら、この店があと何年持つか心配になった。あのスープは名古屋人にはあっているが、果たして京都人に合うのか疑問である。私は醍醐寺の艶やかな紅葉の景色よりも「すがきや」の白いスープの方が思いの中に残ってしまい、この白い恋人にいつかまた会えるだろうかと後ろ髪を引かれる思いで醍醐を後にするのであった。

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posted by 渡邊政道 at 11:05| Comment(0) | 日記

2020年10月19日

直方ルーツ旅

 ずいぶん前になるが、アレックス・ヘイリーという米国の黒人作家が、自分の祖先を求めてアフリカに行き、その顛末をまとめた本がベストセラーになったことがある。誰でも自分が何者なのか、どこから来たのかは気になる。医学用語で見当識というが、自分がどこから来たのかという命題はこれからどこに行くかという道先の目星になるからだ。
 父親が脳出血で死に、しばらくしてから遺産分割協議書を作成した。もちろん行政書士なので簡単に作成したが、戸籍を集める過程で父の祖先が広島に代々暮らす人だという事はわかっていた。しかし、嫁いできた祖母のルーツはわからなかった。調査の結果出てきた福岡県鞍手郡という地名が気になり、現在は直方(のうがた)という地名の町に一度行ってみようと思い立つ。

 何でも筑豊炭田の労務者向けの旅館を経営していた渡邊なにがしの所に子連れで嫁入りしたのが曾祖母(ひいばあさん)で、その娘が私の祖母であった。その祖母のところの旅館に婿養子に入ったのが私の祖父で、そうなると渡邊という名字には血縁的には自分は何も関係が無いことになる。とにかく福北ゆたか線の直方駅に降り立ち、かつて先祖が住んだ町を散策することにした。元々筑豊炭田で大いに栄えたこの町も、今はすっかり寂れてしまい、のどかな地方都市の面影しか残っていない。当時は石炭を満載した貨物列車が煙を巻き上げながら疾走していたのであろう。私は昔の戸籍を見ながら当時先祖が住んでいた場所を目指した。事前にグーグルマップで調査していたので渡邊という家が現存することは判明している。そうは行っても縁もゆかりもないただ渡邊というだけで訪ねることはできないので、ただ近辺を不審者で通報されない範囲でうろつき回るつもりでいた。実際に現地に着くと何の変哲もない住宅街で、ここで本当に旅館を経営して居たのかわからない。急に馬鹿馬鹿しくなり、近くにある「石炭記念館」に行くことにした。
 石炭に関する素晴らしい実物資料があり、当時の採掘状況も詳しく説明されていて、石炭が国を動かす重要な産物であることがわかる。現在の石油と同じ社会インフラを動かすエネルギーインフラだったようだ。ただ採掘労働の姿はつらそうで、狭い坑道を女性までがほぼ裸で這いつくばって石炭を満載したトロッコを引いていて驚く。炭塵爆発も良くあり、そのたびに山が「ゴー」と鳴ったようだ。石炭層が薄い日本ではどうしても掘り進めると地下深くなる。島国炭鉱の宿命であろう。その後直方陣屋でぐだぐだしたら、心と体の疲れが癒えたようなので駅に向かう。成金饅頭という変わった名称の饅頭を売っている。何でも食べると金持ちになるとか。別に金持ちになる気はさらさらないが、先祖ももしかして食べていたかもしれないと思い、購入して公園でほおばった。曾祖父は旅館を経営していたからこんな饅頭を食べて商売繁盛を願っていたかもしれないが、結局酒に溺れ、酒のために借金を重ねて保有する旅館は手放して死んだ。婿養子に来た祖父と祖母は途方に暮れ、2人して広島に帰ったようだ。ついてない町が直方としたらそんな縁起でも無い町にわざわざ船橋から来た孫の私は馬鹿な男だと今更思う。福北ゆたか線で折尾に着いたら名物の駅弁でも食べようと車窓のボタ山をただ眺める旅であった。
posted by 渡邊政道 at 00:40| Comment(0) | 日記